読売新聞の歴史
今回から日本の主要な新聞を紹介していきます。まずは日本で最大の発行部数を誇る読売新聞から始めます。
讀賣新聞の創刊
読売新聞は1874年に日就社から「讀賣新聞」として創刊されました。現在も新聞の題字は「讀賣新聞」と表記されています。創刊当時は隔日の発行でしたが、翌年1875年には日刊紙になります。明治中期には坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴らの文豪が入社、1897年から1902年まで尾崎紅葉による「金色夜叉」が連載され人気を博したようです。残念ながら未完のまま、尾崎紅葉は1903年胃癌のため自宅で没しましたが、その後「金色夜叉」は映画化、テレビドラマ化されていきました。「金色夜叉」の熱海で貫一がお宮を蹴り飛ばす名場面は、熱海サンビーチに「お宮の松」として銅像が建てられているのでご存知の方も多いことでしょう。
報道面でも1888年会津磐梯山の大噴火を銅版画で掲載、1902年には日英同盟の締結をスクープするなど、読売新聞は国民に重大ニュースを伝える大切な役割を果たしていきます。大正に入ると1923年の関東大震災で本社社屋が炎上し大打撃を受け経営困難となりますが、正力松太郎氏が読売新聞を買収し社長に就任、読売中興の祖として経営を立て直し読売新聞発展の礎が築かれることになります。
読売巨人軍の前身となる「大日本東京野球倶楽部」が創立
昭和に入り、読売新聞は発行部数を急速に伸ばし東京では首位となるなど、正力松太郎氏の手腕が発揮されてきます。1931年には米大リーグ選抜軍を招き、全日本代表チームや六大学などの強豪大学チームと試合を行い、興行は大成功をおさめました。そして1934年12月26日に、読売巨人軍の前身となるプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」が創立されました。当時のメンバーは、沢村栄治、スタルヒン、三原修、水原茂など、現在でも野球ファンなら知っている名選手が揃っていました。翌年1935年には、横浜港から秩父丸に乗りアメリカ遠征に向かい、アメリカ国内をバスで移動しながら、マイナーリーグとの試合が中心ではありましたが、75勝33敗1分の好成績を収め、日本でも連日報道され大いに盛り上がったようです。勝つ度に読売新聞の発行部数も増えていったのかと思われます。それにしても船でアメリカに渡り、現地でもバスで移動しながらの試合とは、さぞかし過酷だったことでしょう。遠征と言うより行軍と言った方が相応しいような感じですね。
太平洋戦争、東京大空襲で本社社屋は炎上
そして時代は太平洋戦争に突入していきます。
1941年12月に開戦された太平洋戦争は、ミッドウェー海戦以降徐々に戦局が不利になり、1942年新聞資本の統合を目的とする新聞統制により、報知新聞社を合併し「讀賣報知」に改題されました。各新聞社は報道の制約がされ始め、また言論統制もあり、自由な報道が出来ない苦境の時代を迎えます。1945年5月25日には東京大空襲により銀座の本社社屋が炎上してしまい、築地本願寺に仮事務所を設置、印刷は朝日新聞などに依頼して新聞の発行を続けました。 その後8月15日に終戦を迎えましたが、日中戦争以降読売の社員177人が犠牲になったとのことです。まさに激動の時代です。
戦後9月15日本社を有楽町1丁目(現読売会館)に移転、翌年1946年5月に「読売報知新聞」の題号を「読売新聞」に戻されました。第1次、第2次読売争議を経て、1946年9月1日に「読売信条」を発表。真実と公平と友愛をもって平和と自由を目指すことを宣言します。1947年11月には空襲で焼けた銀座3丁目の社屋が復旧し移転、1952年「大阪読売」を発刊し全国紙として成長していきます。その後日本の復興と共に読売新聞は発展を続け、現在の発行部数日本一の新聞社としての地位を確立させていくことになります。
新しい「読売信条」を制定
2000年1月1日には新しい「読売信条」を制定、責任ある自由・人間主義・日本と世界の平和、繁栄を追求し、勇気と責任ある言論を約束することになります。 この信条は毎年元旦の紙面に全文掲載されていますので、一度ご覧になってください。 まだまだ世界は不幸な事件が多いですが、日本と世界が平和になり繁栄を続けられるよう、読売新聞を始めとする各メディアに責任ある報道を期待したいと思います。