朝日新聞の歴史
大阪の地で創刊された朝日新聞
「朝日新聞」は木村騰氏と村山龍平氏により大阪の地で1879年1月25日に創刊、全4ページで約3千部発行されたそうです。 最初は読み物や雑報を中心にした大衆向けの小新聞だったとのことです。創刊2号まで無料頒布され、第3号から1部1銭で販売されました。 その後新聞販売は好調に伸びていき、第400号の頃には1万3千部の発行部数を超えるまでになりました。 1881年に木村騰氏は経営から退き、その後は村山龍平氏と上野理一氏により共同経営されていきます。 現在でも村山家と上野家は朝日新聞社の大株主で、社主は村山美知子氏が務めています。
1888年には村山龍平氏が「めさまし新聞」を星亨氏から譲り受け「東京朝日新聞」と改題され創刊、翌年から大阪では「大阪朝日新聞」となりました。こうして朝日新聞は東京での地盤を固めていきます。それにしても「めさまし新聞」とはフジテレビの「めざまし新聞」と紛らわしいですね。 「東京朝日新聞」の創刊号では、何と明治天皇の肖像「貴顕肖像図」が付録で付けられたというから驚きです。 新聞に付録が付くとは現代では考えられませんね。それがしかも天皇の肖像画ですから。
東京と大阪に拠点を持つ朝日新聞は、報道のスピードでも他社を圧倒していきます。 1889年2月の憲法発布では、東京朝日が憲法条文の全文を大阪へ電報で送り、大阪朝日は他社を出し抜き報道したとのことです。今では東京と大阪なんて近いものですが、当時としては画期的だったのでしょうね。 翌年にはフランス製の輪転機が日本で初めて導入され、印刷のスピード化により他社より締め切り時間を遅くすることが実現、速報性で差別化が出来るようになっていきました。
「天声人語」と夏目漱石らの連載
1904年3月には大阪朝日にて「天声人語」がスタート、この欄はご存知の通り現在でも続いています。 その後、二葉亭四迷、夏目漱石が入社し「其面影」「平凡」(二葉亭四迷)、「虞美人草」「三四郎」「それから」「こゝろ」(夏目漱石)などの名作が連載がされていきました。また石川啄木も入社、「朝日歌壇」の選者となります。
大正に入り1915年には第1回全国中等学校優勝野球大会を豊中グラウンドにて実施。1924年からは甲子園球場が舞台となりました。途中戦争による中断はありましたがその後毎年続き、2018年には第100回記念大会が実施されたのは記憶に新しいところです。朝日新聞は高校野球の発展に多大な貢献をしてきたと言えるでしょう。また読売新聞もそうでしたが、1923年の関東大震災により東京朝日のビル内が全焼、大きな打撃を受けます。
東京朝日新聞社屋襲撃
昭和に入ると、満州事変の勃発後に陸軍が1億円の軍事費増強を訴えたことを朝日新聞が批判したことにより、軍部の不興を買い大規模な不買運動が展開されることになります。これが1936年の二・二六事件による東京朝日新聞社屋襲撃に繋がっていきます。陸軍の青年将校らが決起して、高橋是清大蔵大臣を襲撃し殺害、首相官邸、内大臣邸、警視庁などを襲撃し国家中枢を押さえたクーデター事件において、新聞社の中では朝日新聞だけが襲われ、活字ケースなどを破壊されてしまいました。報道活動にも大きな影響が出たことでしょう。現代の平和な日本では想像もつかない事件ですね。
その後太平洋戦争が開戦し、朝日新聞も戦争翼賛報道を行い軍部の御用新聞化されていきます。大本営発表をそのまま報道し、どの新聞を読んでも一緒だったのでしょうから、新聞メディアの価値も無かった時代と言えるかもしれません。1945年8月15日に終戦を迎え日本は敗戦、朝日新聞は社説「自らを罪するの弁」、声明「国民と共に立たん」を発表、戦争報道の責任を取り村山長挙社長、上野精一会長以下幹部達が辞任します。1947年には村山長挙氏、上野精一氏は公職も追放され朝日新聞は身売り説も噂されましたが、まもなくこの二人は公職追放も解かれ朝日新聞の再興に尽力したとのことです。
日本を代表する新聞メディア
1952年には新しい朝日新聞綱領を制定。不偏不党の地に立って言論の自由を貫く、正義人道に基いて国民の幸福に献身、真実を公正敏速に報道、常に寛容の心を忘れず品位と責任を重んじと、四つの柱を発表しました。この綱領は現在も続いています。他紙と共に日本を代表する新聞メディアとして、この綱領の精神を忘れず貫いて行って欲しいと思います。